阪神淡路大震災から24年

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阪神淡路大震災から24年。
今日は午前5:46を東遊園地で迎え、午前中は兵庫県立大学減災復興政策研究科の講義が無料で受講できるということで人と防災未来センターへ。
午後は、国際会館で開かれた避難訓練コンサートへ行ってきました。
1.17に丸一日神戸にいたのは久しぶりです。

毎年書いていますが、知らない世代も増えているということなので、今年も書いてみます。
長くなりますが、知っていただくことも必要なのかなと思います。

私は阪神競馬場の近く、宝塚市仁川に住んでいました。
当時、大阪でサラリーマンをしていたんですが、出社前7:00にオープンする大阪梅田のスポーツジムに通っていたので、布団の中で目覚め、「そろそろ起きなきゃなぁ~」と思っていた時に5:46に。
激しい揺れに見舞われ、妻と2人、頭から布団を被っていると、背中に何かが当たりました。
「あっ、天井から照明が落ちてきた」と思いつつ、揺れが収まるのを待ちました。
揺れが収まり、起き上がってみると、背中に当たったのは天井照明ではなく、縦長の本棚が倒れてきてました。
本棚自体が軽いものだったのと、棚にあまり物が入ってなかったので、照明が落ちてきたように感じたんだと思います。
まわりを見回すと、部屋の中ではテレビが転がり、キッチンでは開き扉の食器棚から全ての食器が飛び出て割れ、床に散乱していました。
まさに「足の踏み場もない」状態です。
洗濯機につないでいた水道からは水が噴き出し、水浸しにもなりました。
しばらくすると外から「誰か助けて~」と女性の声。
私は2階建ての鉄筋の賃貸コーポに住んでいたんですが、同じ敷地内に同じ大家さんの持つ4階建ての鉄筋マンションと木造平屋の一軒家があり、声は平屋の方からしていました。
外へ出てみると、平屋は全壊、叫んでいた女性はそこに住むお母さんで、お子さん達が閉じ込められていました。
近所の方と一緒に屋根瓦をはがし、中学生の弟さんを助け出しました。
でも残念ながら高校生のお姉ちゃんは助け出すことができず、お亡くなりになりました。
あちこちで被害が出ているため、救急車が来ることはなく、雨戸板に寝かされ、毛布を掛けられていた姿は忘れられません。

自宅のライフラインは、電気とガスは止まっていましたが、水道はチョロチョロと出ました。
電気はその日のうちに復旧し、ご飯は炊けるし、ホットプレートなら調理もできる状態に。
明るくなってから、付近を少し歩きました。
アスファルトの路面はあちこちでひび割れ、ガスが漏れているようで、どこもガス臭く、木造アパートの多くは何らかの被害が出ていました。
まだ携帯電話のない時代、公衆電話の列に並び、神戸市垂水区の実家に電話しました。
どこにどれだけ被害が出ているのかを知る術はない状態だったので、「自宅もえらいことになってるのではないだろうか?」と心配してたんですが、母の第一声は「大事にしてたコップが一つ割れたのよぉ~」と想定外のもの、「ケガはないだろうか?」と心配して電話したのに、なんだか拍子抜けしました。
淡路島~神戸~宝塚と震度の大きかったコースから外れていたようで、 不幸中の幸いだったと言えます。

仁川から大阪へは、阪急今津線で西宮北口へ出て、阪急神戸線で梅田へ行くわけですが、今津線をまたいでいる新幹線の高架とR171の高架が落下し、今津線は不通。
自宅の片づけもあるため、3日間会社を休みました。
スーパーの長い列に並び、食材を調達しましたが、あまり食欲がわかなかったことを覚えています。
4日目、大阪の親戚宅に居候させていただくことになり、妻と2人、西宮北口まで1時間かけて歩き、阪急電車に乗って梅田に向かいました。
車窓から外を見ていると、全壊の家屋、1階が押しつぶされたマンションなどが立ち並んでいましたが、武庫川を越えると様子は一変、そこには日常がありました。
パチンコ店が通常通り営業していたことにショックを受けました。
大阪に着くと、ほんとに何ごともなかったようにお店は開き、人々は行き来していました。
親戚宅での居候は2週間。
仁川から西宮北口までは相変わらず不通でしたが、隣の小林駅から反対方向の運転が再開され、少し遠回りですが宝塚経由なら通勤できるようになったため、帰宅しすることにしました。
それでもガスは復旧していなかったので、仕事が終わったら大阪で銭湯に立ち寄り、お風呂に入ってから帰宅する生活がしばらく続きました。

宝塚市でも多くの方が避難所暮らしとなりました。
ただ、神戸での被害があまりにも甚大だったため、報道も神戸中心。
私の住んでいた仁川の山沿い、百合野という地区では、地震によっておよそ100m四方の斜面が深さ15mも崩れ、13戸が押しつぶされ、34名の方がお亡くなりになっています。
そのことが報道されたのは、しばらくたってからだったように思います。
今は、その被害を風化させないよう、百合野地区に地すべり資料館が建てられています。
1.17、どうしても神戸に関心が集まり、報道も神戸が中心になっていますが、他の地域でも大きな被害が出て、たくさんの方が亡くなられています。
地すべり資料館、いつか訪ねてみようと思いつつ、未だ行けていません。
今年こそは訪ねてみたいと思います。

ボランティア元年と言われる阪神淡路大震災の起きた1995年。
自宅にボランティアに来ていただくこともなく、仕事が忙しかったこともあり、ボランティアに行くこともせず。
2014年8月の丹波市豪雨で災害ボランティアに行ってみると、全国各地から本当にたくさんのみなさんが来られていました。
それをきっかけに、私も支援活動に行くようになりました。
2015年9月には、北関東・東北豪雨災害があり、栃木県鹿沼市・宮城県大和町・茨城県常総市で活動しました。
「丹波に行きましたよ!」というボランティアにもたくさん会いました。
そして昨年2016年は熊本地震と鳥取中部地震が発生。
常総市でできたつながりを頼りに、5月と8月にそれぞれ5日間、南阿蘇村へ。
地震被災地での活動は初めてで、豪雨・土砂災害とはまた違った活動を経験。
倒壊したお宅の安全確保をしていただいた上で、室内で貴重品探しをしたり、屋根上でブルーシートを張ったり。
その後、2017年・2018年とできる範囲で活動を続け、今は昨年9月に発生した台風21号で被災した大阪府岸和田市で屋根にブルーシートを張る活動をさせていただいています。
台風から4ヶ月がたった今も雨漏りしたままのお宅があるんです。
西日本各地の広範囲で災害があったため、修理業者の手が回らず、中には「2年後」と言われた被災者さんもいらっしゃいます。
屋根に登らず、下でやってもらう作業もたくさんあるので、「お手伝いしてみたい」という方はぜひ。

なぜ支援活動に行くのだろう?と自問自答してみると、

もちろん、困っている方の役に立ちたいという気持ちがベースにありますが、それは「被災された方が前を向くお手伝いなんだな」と感じています。
例えば半日で終わるような活動であっても、一人暮らしで話し相手を必要とされているような方の場合は、じっくり話を伺いながら1日かけて活動することの方が、その方がより元気になったり、前向きな言葉が出るようになったりします。
メンタルケアの専門知識があるわけではないので、寄り添う気持ちを大切にするくらいのことですが・・・。

そして、一緒に活動するボランティアのみなさん、ボランティアセンターのみなさんとつながりを築くことがとても大切と思っています。
いつどこで起きるかわからない災害、明日は私の住む町で起きるかもしれない。
そんな時には、つながりのあるみなさんがきっと支援に来て下さる。
災害は起きないのが一番ですが、起きるたびに少しずつつながりが広がっています。

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