Archive for 災害ボランティア

The Day Project Meeting in 南阿蘇村 vol.1

The Day Project Meeting in 南阿蘇村 vol.1 The Day Project Meeting in 南阿蘇村 vol.1 The Day Project Meeting in 南阿蘇村 vol.1

今日もイベントのお手伝い。
『The Day Project Meeting in 南阿蘇村 vol.1』
主催するのは、熊本地震後に南阿蘇村の復旧・復興を目的として90もの事業者が作った南阿蘇村観光復興プロジェクト交流協議会です。
「故郷を同じくする村人が、4/16という特別な日に集い、同じ時間を過ごし、心を寄せあうことが必要なんじゃないか」と企画されたイベントです。
南阿蘇村在住のアーティストが作った映像作品の上映を中心に音楽やスピーチなどのプログラム。
村外のアーティストにも、自分たちの想いを伝え、南阿蘇村に何度も足を運んでいただいたそうです。
イベントの主旨からわかるように、ターゲットは南阿蘇村に住む人々。
映像作品の多くには、たくさんの村民が登場されていたし、通路に張り出されたポスター作品にも笑顔があふれていました。
「地震によっていろんなものを失ったけど、やっぱり南阿蘇が大好きで、住み続けたい!」
そんな想いをみんなで再確認するステキなイベントだったと思います。
大人だけではなく、小さなお子さんを連れたご家族も多かったし、中学生や高校生も学校として参加していたのは地元ならでは。
これからの阿蘇を担うのは、子どもたちですもんね。

復興に限らず、町おこしのような取り組みを検討する際、重鎮と呼ばれる人たちをはじめ、年配者の意見で進んでしまうことは多いと思います。
しかし、協議会では若い世代に企画を託し、年配の方々は企業協賛を募る、関係各所へ調整するといった裏方に回ったと聞きました。
できそうだけど、なかなかできないことですね。

イベント名にVol.1とあるように、また来年も開催されるようです。
回を重ねるのに比例して、南阿蘇村は、ますますステキになりそう。
その時は、ゆっくり観光に来たいと思います。

熊本地震から1年

熊本地震から1年 熊本地震から1年
熊本地震で大きな被害を受けた南阿蘇村黒川地区へ。
熊本地震前に廃校になった小学校で行われたイベント会場で車の誘導をお手伝い。
午前中は日蓮宗の復興祈念法要が行われ、午後はとある団体主催のイベントでした。
熊本県内各所で様々なイベントが行われたと思います。
午前中は日蓮宗の復興祈念法要が営まれ、午後はとある団体主催のイベントでした。
今日感じたことを少し。
「誰もが、津波や原発事故のあった東日本大震災とその後の災害をついつい比べてしまいがち。そして被害は少ないと、支援団体は早めに去ってゆく。でも私たちは1年たった今だからこそ必要と考え、支援を行います。」と、主催者はあいさつされました。
果たしてそうでしょうか?
長く支援を続けることが大事なのではなく、被災された方が自らの力で立ち上がり、いかに支援を終えるかが大切なのでは?と思います。
長く支援を続けることが、かえって自立の力を奪ってしまう。
そういうこともありますよね。
イベントは、歌手や落語家を連れてきて、元気づけるというものでした。
以前観たポバティ・インクというドキュメント映画が思い出されます。
有名人であればあるほど、声を大きくして支援を訴えれば訴えるほど「被災した人たちや貧しい国の人たちは自分たちでは何もできず、支援が必要な人たちなんだよ。」という印象を与えてしまう。
どことなく上から目線だったり、自分たちに酔ってるように感じてました。
イベントが終われば、テントで打ち上げも始まったようでした。
笑い声も漏れてきます。
ここは被災地、しかも熊本地震から1年の日。
多くの方が亡くなった方のことや、無くしたもののことを思い過ごす日にもかかわらず…。

南阿蘇村に大きな被害をもたらしたのは、4/16午前1:25の熊本地震本震。
東海大学農学部の学生有志とそのときを迎え、亡くなったみなさんの献灯し静かな時間を過ごしました。

大杉ダムさくらまつり

大杉ダムさくらまつり 大杉ダムさくらまつり 大杉ダムさくらまつり
2014年8月、豪雨が襲って大きな被害が出た丹波市市島町。
あれから3度目のさくらまつりです。
復旧途中のため、昨年はグルッと一周できなかったダムも、今年は回れるようになりました。
まだ復旧工事や防災のための工事をやっている箇所もまだありますが、それももうあと少しのようです。
朝まで雨が降っていたせいか、少し肌寒い丹波でしたが、満開の桜のもと、地域の方はお花見を楽しんでおられました。

倉吉市災害ボランティアセンター閉所に向けて

倉吉市災害ボランティアセンター閉所に向けて 倉吉市災害ボランティアセンター閉所に向けて 倉吉市災害ボランティアセンター閉所に向けて
昨年10月21日に発生した鳥取中部地震から5ヶ月。
今月末をもって倉吉市災害ボランティアセンターは閉所となり、通常のボランティアセンターに移行します。
今日は災害ボランティアセンターとして最後の活動日でした。
午前中は屋根のブルーシート張り。

午後は、お疲れさま会が催され、参加されたみなさんが一言ずつあいさつすることに。
ボランティアセンタースタッフの方々、地元倉吉市のボランティアのみなさんに共通していたのは『全国から集まったボランティアへの感謝の言葉』でした。
事務局長からは「彼らがいなければ、運営できなかった」と、立ち上げ時にサポートしてくれた災害支援団体の方々への感謝。
そして、「起きては欲しくないけど、もし次にどこかで災害があったら、必ずみんなで支援に行きます!」という言葉もありました。

災害ボランティアセンターの立ち上げに15年ほど関わってこられた災害支援団体の方からは「倉吉はいい意味で緩いボランティアセンターだった」というお話し。
災害が起き、何とかがんばって復旧させようと奔走するボランティアセンターには、緊張やピリピリムードがあり、「本当にそれでいいんだろうか?」と思っておられたそうです。
しかし、倉吉市災害ボラセンは、被災という辛い状況にありながらも、被災者さんが笑顔に、ボランティアも笑顔になるような対応をしてこられました。
だからこそ、今日のようなお疲れさま会を開くことができたんでしょう。
社協のみなさんの「社協に来た人には笑顔で帰ってもらう」という普段からの心がけと取り組みがそうさせたのかもしれません。
私もいくつかのボランティアセンターで活動させていただきましたが、倉吉が一番垣根が低いと感じています。
何度も通うボランティアがスタッフと仲良くなるのはもちろん、初めてのボランティアであってもスタッフとの距離が近いように感じます。
スタッフのみなさんが積極的にボランティアに声かけしているからかな。

お疲れさま会では、発災から5ヶ月間の活動をつづったスライドショーも上映されました。
この5ヶ月間、ボランティアセンターを支えてくださった倉吉市社協、倉吉市役所、その他関連部署や関連団体のみなさん、本当にお疲れさまでした。
閉所と知って、被災された方からの電話が増えたという話も聞きました。
通常のボランティアセンターに移行しても、ニーズはまだありそうです。
被災された方の自立を考えると、いつまでお手伝いすべきかということも気になりますが、もう少し関わっていければと思っています。

「震災から家族と地域を考える」シンポジウム

倉吉市「震災から家族と地域を考える」シンポジウム
昨年10月に鳥取中部地震で被災した倉吉市。
5ヶ月がたとうとする今日、「震災から家族と地域を考える」シンポジウムが開催されました。
倉吉市民の方が対象のシンポジウムですが、支援活動したボランティアも参加できるとのことだったので、「きっと学ぶべきものがある」と思い、参加してきました。

第1部は、映画『ふたりの桃源郷』の上映。
山での2人暮らし、例え山を下りても山に心のある夫婦と、それを支える家族の25年を記録したドキュメンタリーです。
人は皆、年老いていく。
その時に本人はもちろん、家族が何を大切にするかを考えさせられる映画でした。
本筋ではありませんが、老老介護の現実も垣間見ました。
http://www.kry.co.jp/movie/tougenkyou/

第2部は、被災された方や支援活動された方からの報告。
前半のお2人は、災害時に地域に住まわれる皆さんの安否確認をする立場の方。
最初の方は、500世帯1,000人以上が住む地区の公民館長。
14時7分の地震発生後、地区の被害を確認するとともに、高齢者や独居者の安否確認をするために、夜遅くまで自転車で走り回ったとのこと。
避難所開設のを地区の放送で流してからは、安否確認に訪ねた高齢者の方々に「避難所へ連れて行ってほしい」と頼まれることもあり、当日は3分の2くらいしか確認できなかったそうです。
翌日は、倉吉市内の被害状況や罹災証明に関する案内や「被害状況を写真に撮るように」いうアドバイを放送しつつ、自転車でまた安否確認に走ったそうです。
これができたのも、普段から高齢者や独居者の支援台帳をきちんと作ってあったからだと振り返っておられました。
さらに素晴らしいと思ったのは、発災から3ヶ月後に住民アンケートを実施されたこと。
特に「近所の人の安否確認をしましたか?」という項目への回答が知りたかったそうで、結果は「両隣・向かいのお宅くらいは当然した」というもの。
そうであるなら、より迅速に安否確認できるよう、キチンと仕組みとして作ちたいとおっしゃってました。
次の発表は、2,400世帯5,500人が暮らす地区で民生児童委員をされている方。
本来の見守り対象は140名ほどだそうですが、自治会加入率が64%と低く、加入してない方への対応を民生児童委員が対応することになっているらしく、負担が大きかったそうです。
万が一に備え、自治会・福祉施設などの関係者と連携することが大切だとおっしゃっていました
その後、小学生の登下校見守りを行ったり、ボランティアセンター駐車場の誘導係を行っていたそうです。
知らず知らずのうちに、私もお世話になっていました。
後半は、支援活動にかかわったお2人。
まずは、青年会議所の方。
青年会議所というのは、20~40才の青年経済人で構成される世界的な組織だそうです。
家族の安否、社員の安否確認後は、炊き出しをはじめとして、屋根復旧作業に必要となったUV土のう袋・ブルーシートなどの資材調達やボランティアセンターで必要な軽トラックの手配などを行い、中国地方の青年会議所にボランティアを呼びかけ、ご自身も実際に屋根の復旧作業をされてきたとのことでした。
一段落したあとは、倉吉ばえん祭・ニューレトロ祭といったイベントを企画運営とのこと。
災害後は、みんなで集まって楽しむ・笑うということがなかなかしづらい。
そういう時に、みんなが集える場・笑い合える場はとても大切だと思います。
最後の発表は、鳥取大学生。
熊本地震のあと、何かできないかと「鳥取発信復興支援災害プロジェクト」を発足したところに発生した鳥取中部地震。
災害ボランティアセンターと鳥取大学生をつなぐ役割を担い、多くの学生をボランティアに連れてきてくれました。
また、鳥取駅で街頭募金も行ったそうです。
若者がいると、ボランティアセンターも活気づくし、活動に伺ったお宅のみなさんも力をもらったり、笑顔になったりします。
若さって素晴らしい!
今後は、家屋の片付けや心身のケアなどの復興支援を継続し、自分たちの防災意識を高める活動を行っていきたいと報告されていました。
全国からの災害支援は、いつか収束していくもの。
地元のがんばりに期待しましょう。

シンポジウムの最後には、地震発生後から今に至る写真のスライドショーが流されました。
発災から5ヶ月、全国からのいろんな支援があって、今につながっていることを再確認できた映像でした。

一般的に、都会は近所づきあいが薄く、田舎は濃い。
でも、地区によっては、学生や若者の住むアパートやマンションが多い場合もあり、どうやって普段から関係を作っておくかが課題でもあり、大切なことだと感じるシンポジウムでした。

あれから2年

丹波市豪雨災害 丹波市豪雨災害
丹波市豪雨災害から2年半 丹波市豪雨災害から2年半
通りすがりに立ち寄りました。
初めてそこへ行ったのは、2014年8月の丹波市豪雨災害から半年たった頃だったと思います。
緩やかな傾斜地に区画整理された大きめの田畑が広がるその谷筋には、半年たったにもかかわらず、大量の流木が土砂崩れによって流れ込んだままでした。
山に近いほど、大きな木がたくさん横たわっていて、それはボランティアではどうしようもない状況。
しかし、下流の田畑に流れ込んでいたのは人が運べるくらいの大きさで、家族3人だけで片づけている方がいらして、みんなでお手伝いさせていただくことになったと記憶しています。
時には小雪混じりの中で高校生の団体も一緒に活動しましたが、ぬかるんだ田畑には、すくえばすくっただけ小さな枝などが混じっている状態で、「果てしない」と感じたものでした。
あれから2年。
田畑に流木は見当たらず、耕作した様子もうかがえました。
ドロドロだった道もキレイに砂利が敷かれていたし、崩れていた用水路もキチンと復旧されていました。
何もない状態を見て、少し嬉しくなりました。
ただ、田畑が途切れる一番奥まで歩いてみると、動物除けの柵の向こうには当時のまま倒木が残っています。
「いろんなものを奪ってしまう災害は怖いな。被害を少なくするための備えが大切だな。」と気持ちも引き締まります。

鳥取中部地震、倉吉市災害支援活動12日目

鳥取中部地震、倉吉市災害支援活動12日目 鳥取中部地震、倉吉市災害支援活動12日目
鳥取中部地震、倉吉市災害支援活動、通算12日目。
今日は、体育館の改修工事が近づいてきたため、全国から集まった支援物資を体育館から別の施設に移動し、整理する作業でした。
20名ほどでバケツリレーの要領で、午前中に水600箱くらいは運んだでしょうか。
午後からは高校生の野球部員10数名が緊急参加し、「楽になるかなぁ~」と思っていたら、若さって怖いですね。
逆にペースアップして、より一層疲れました。
参加されたみなさん、腕大丈夫ですか?
全部で何箱くらいあったのかなぁ~
水はおそらく900箱くらい、10枚入りの毛布が80箱、マスクが20箱くらい、その他にもカップ麺やパックのご飯もたくさん。
ホントにお疲れさまでした。

鳥取中部地震、倉吉市災害支援活動11日目

鳥取中部地震、倉吉市災害支援活動11日目 子ども食堂ほっとここ 子ども食堂ほっとここ
鳥取中部地震、倉吉市災害支援活動11日目。
久しぶりに伺いました。
道路は除雪されていましたが、道中の兵庫県北部も鳥取県内も先週降った大雪がかなり残っています。
ボランティアセンターも駐車場の一角に雪が山積みになっています。
午前中は、家具の移動と雪かきのお手伝い。
午後からは、ブルーシート張りに出かけましたが、屋根に上がった途端に天気が急変。
強い風に雨も降ってきたので、即中止となりました。
残りの時間は、地域のみなさんを訪問するための準備作業。
スムーズに方もできるよう、リスト化された訪問先を住宅地図にプロットしました。

たまたま今日は、近くの子ども食堂『ほっとここ』がオープンしているということで、お昼ご飯はみんなでそちらへ。
『ほっとここ』は12月17日に始まったばかりで、第1金曜日と第3土曜日にオープンするそうです。
元々11月のオープンを目指していたところに鳥取県中部地震が起き、壁や屋根瓦が被害を受け、それを乗り越えてオープンされたようです。

今日もたくさんの方が来られていて、私はボランティアメンバーと一緒に食べていたんですが、後ろのテーブルにお年寄りが1人で食べていたことに全く気づかず。
隣のテーブルで食べていたボランティアセンタースタッフでもある社協職員の方が「良かったら私たちと一緒に食べませんか?」と声をかけられました。
お年寄りの方は「いえいえ」と遠慮され、そのままお1人で食べられたんですが、「子ども食堂の趣旨からすると、そうやってみんなで楽しく食べるように気配りすることが必要だな!」と反省、ほろ苦い子ども食堂デビューとなりました。
倉吉に限らず、子ども食堂へ行った際は、みんなで楽しく食べようと思います。

丹波市豪雨災害ボランティアの仲間たち

丹波市豪雨災害ボランティアの仲間たち
2014年8月に発生した丹波市豪雨災害。
その時に活動した面々と再会してきました。
総勢40名ほど。
もちろん、もっとたくさんの方々が足を運んでくれ、災害復旧の手助けをしてくれたわけで、感謝するばかりです。
久しぶりに会うみんなは、それぞれがんばっているようで、「負けないようにがんばらねば!」と身が引き締まります。

阪神淡路大震災から22年

阪神淡路大震災から22年。
毎年書いていますが、知らない世代も増えているということなので、今年も書いてみます。
長くなりますが、知っていただくことも必要なのかなと思います。

私は阪神競馬場の近く、宝塚市仁川に住んでいました。
当時、大阪でサラリーマンをしていたんですが、出社前7:00にオープンする大阪梅田のスポーツジムに通っていたので、布団の中で目覚め、「そろそろ起きなきゃなぁ~」と思っていた時に5:46に。
激しい揺れに見舞われ、妻と2人、頭から布団を被っていると、背中に何かが当たりました。
「あっ、天井から照明が落ちてきた」と思いつつ、揺れが収まるのを待ちました。
揺れが収まり、起き上がってみると、背中に当たったのは天井照明ではなく、縦長の本棚が倒れてきてました。
本棚自体が軽いものだったのと、棚にあまり物が入ってなかったので、照明が落ちてきたように感じたんだと思います。
まわりを見回すと、部屋の中ではテレビが転がり、キッチンでは開き扉の食器棚から全ての食器が飛び出て割れ、床に散乱していました。
まさに「足の踏み場もない」状態です。
洗濯機につないでいた水道からは水が噴き出し、水浸しにもなりました。
しばらくすると外から「誰か助けて~」と女性の声。
私は2階建ての鉄筋の賃貸コーポに住んでいたんですが、同じ敷地内に同じ大家さんの持つ4階建ての鉄筋マンションと木造平屋の一軒家があり、声は平屋の方からしていました。
外へ出てみると、平屋は全壊、叫んでいた女性はそこに住むお母さんで、お子さん達が閉じ込められていました。
近所の方と一緒に屋根瓦をはがし、中学生の弟さんを助け出しました。
でも残念ながら高校生のお姉ちゃんは助け出すことができず、お亡くなりになりました。
あちこちで被害が出ているため、救急車が来ることはなく、雨戸板に寝かされ、毛布を掛けられていた姿は忘れられません。

自宅のライフラインは、電気とガスは止まっていましたが、水道はチョロチョロと出ました。
電気はその日のうちに復旧し、ご飯は炊けるし、ホットプレートなら調理もできる状態に。
明るくなってから、付近を少し歩きました。
アスファルトの路面はあちこちでひび割れ、ガスが漏れているようで、どこもガス臭く、木造アパートの多くは何らかの被害が出ていました。
まだ携帯電話のない時代、公衆電話の列に並び、神戸市垂水区の実家に電話しました。
どこにどれだけ被害が出ているのかを知る術はない状態だったので、「自宅もえらいことになってるのではないだろうか?」と心配してたんですが、母の第一声は「大事にしてたコップが一つ割れたのよぉ~」と想定外のもの、「ケガはないだろうか?」と心配して電話したのに、なんだか拍子抜けしました。
淡路島~神戸~宝塚と震度の大きかったコースから外れていたようで、 不幸中の幸いだったと言えます。

仁川から大阪へは、阪急今津線で西宮北口へ出て、阪急神戸線で梅田へ行くわけですが、今津線をまたいでいる新幹線の高架とR171の高架が落下し、今津線は不通。
自宅の片づけもあるため、3日間会社を休みました。
スーパーの長い列に並び、食材を調達しましたが、あまり食欲が湧かなかったことを覚えています。
4日目、大阪の親戚宅に居候させていただくことになり、妻と2人、西宮北口まで1時間かけて歩き、阪急電車に乗って梅田に向かいました。
車窓から外を見ていると、全壊の家屋、1階が押しつぶされたマンションなどが立ち並んでいましたが、武庫川を越えると様子は一変、そこには日常がありました。
パチンコ店が通常通り営業していたことにショックを受けました。
大阪に着くと、ほんとに何ごともなかったようにお店は開き、人々は行き来していました。
親戚宅での居候は2週間。
仁川から西宮北口までは相変わらず不通でしたが、隣の小林駅から反対方向の運転が再開され、少し遠回りですが宝塚経由なら通勤できるようになったため、帰宅しすることにしました。
それでもガスは復旧していなかったので、仕事が終わったら大阪で銭湯に立ち寄り、お風呂に入ってから帰宅する生活がしばらく続きました。

宝塚市でも多くの方が避難所暮らしとなりました。
ただ、神戸での被害があまりにも甚大だったため、報道も神戸中心。
私の住んでいた仁川の山沿い、百合野という地区では、地震によっておよそ100m四方の斜面が深さ15mも崩れ、13戸が押しつぶされ、34名の方がお亡くなりになっています。
そのことが報道されたのは、しばらくたってからだったように思います。
今は、その被害を風化させないよう、百合野地区に地すべり資料館が建てられています。
1.17、どうしても神戸に関心が集まり、報道も神戸が中心になっていますが、他の地域でも大きな被害が出て、たくさんの方が亡くなられています。
地すべり資料館、いつか訪ねてみようと思いつつ、未だ行けていません。
今年こそは訪ねてみたいと思います。

ボランティア元年と言われる阪神淡路大震災の起きた1995年。
自宅にボランティアに来ていただくこともなく、仕事が忙しかったこともあり、ボランティアに行くこともせず。
2014年8月の丹波市豪雨で災害ボランティアに行ってみると、全国各地から本当にたくさんのみなさんが来られていました。
それをきっかけに、私も支援活動に行くようになりました。
2015年9月には、北関東・東北豪雨災害があり、栃木県鹿沼市・宮城県大和町・茨城県常総市で活動しました。
「丹波に行きましたよ!」というボランティアにもたくさん会いました。
そして昨年2016年は熊本地震と鳥取中部地震が発生。
常総市でできたつながりを頼りに、5月と8月にそれぞれ5日間、南阿蘇村へ。
地震被災地での活動は初めてで、豪雨・土砂災害とはまた違った活動を経験。
倒壊したお宅の安全確保をしていただいた上で、室内で貴重品探しをしたり、屋根上でブルーシートを張ったり。
倉吉市でも、ブルーシートを張ってます。

なぜ支援活動に行くのだろう?
もちろん、困っている被災者さんの役に立てることをするために。
それは「地元の方が前を向くお手伝いなんだな」と感じています。
そして、一緒に活動するボランティアのみなさん、ボランティアセンターのみなさんとつながりを築くことがとても大切。
いつどこで起きるかわからない災害、明日は私の住む町で起きるかもしれない。
そんな時には、つながりのあるみなさんがきっと支援に来て下さる。
災害は起きないのが一番ですが、起きるたびに少しずつつながりが広がっています。